敵國降伏のいわれ

日本の三大八幡 筥崎宮(福岡市東区)の楼門に「敵國降伏」の扁額が掲げられています。この「敵國降伏」の意味合いを知り、とても明るく前向きな気持ちになり、心に響きました。
その意味合いを知ったのは、ありがたいことに宮司様とのご縁があり「敵國降伏のいわれ」という小冊子を拝読させていただいたことがきっかけでした。

この「敵国降伏」の四文字からは、「敵国を降伏させよ!」という武力的なイメージをしがちですが、実は、日本人らしい「徳」の意味合いがありました。「思いをカタチに」を生業としている私たちにとって、この「徳の思い」を汲み取り表現させていただくことがとても大切なことだと改めて気付かされました。この度、
宮司様に「敵國降伏のいわれ」小冊子全文のご紹介を特別にお許し頂くことができましたので、ここにご紹介させていただきます。


~ 小冊子「敵國降伏のいわれ」(全文)~
  < 文責 筑紫印刷 >

 

亀山上皇御親書
「敵國降伏」のいわれ

 

御神木『筥松』からのぞむ筥崎宮楼門。
「敵國降伏」の頼額が掲げられている
ため、伏敵門ともいわれている。

 

 

 

筥崎宮の楼門高く「敵國降伏」の額が掲げられています。この言葉は遠い平安時代筥崎宮が創建された当時、醍醐天皇が勅願奉納されて以来、歴代の天皇さまがしばしば奉納されて来たと伝えられています。

現在掲げられていますのは、元冠の折、身を捨てて国難に代ろうとお祈りになった亀山上皇が御書きになった御宸翰(ご親筆)三十七枚のうちの一枚を、桃山時代に模写拡大したもので、昔から筥崎宮の象徴とされてきました。

ではこの四文字には、正確にどのような意味がこめられているのでしょうか。一寸考えれば、日本に攻め寄せてくる敵國を降伏させようというお祈りのように思われますし、現に一般にはそのように考えられているようです。だが果してそれでいいのでしようか。それを説明いたします前に、一つのエピソードを紹介しておきましょう。

 

頼山陽と亀井昭陽
 時代は百六十余年ほどさかのぼりますが、文政元年(一八一八)四月、頼山陽が博多にやって参りました。頼山陽はいうまでもなく幕末を代表する儒学者、当時『日本外史』を執筆、鎌倉幕府以来の武家政治の誤りを指摘し、日本人の生きるべき大義を明らかにして世の注目を浴びていました。

山陽は二十日ほど当地に滞在いたしますが、その滞在のある日、福岡の代表的儒学者亀井昭陽の案内で筥崎宮に詣でました。そのころ筥崎宮は見渡すかぎりの白砂青松の中に鎮座していました。この絵のような風景は山陽の旅情をさぞかし慰めたに違いありません。しかもいま案内してくれている昭陽の父亀井南冥は全国的に著名な儒学者、そして山陽の父頼春水とも深い契りを結んでいたのです。

父親同士の交友という縁(えにし)につながる二人の間には、単なる学者としての交際以上のあたたかなものが流れていたことでしょう。当時山陽は三十九歳、昭陽は四十六歳でした。

さて、そびえ立つ楼門に掲げられた「敵國降伏」の額をふり仰いだ山陽は、ふと或る疑念にとらえられて昭陽をふり返り、こう問いかけました。

「これは『敵國降伏』ではなく『降伏敵國』でなければ文の意味が通じないのではないでしょうか。」

なるほど、敵國を降伏させるという意味であれば、漢文の語法上「降ニ伏セシム敵國ヲ」となり、降伏が敵國の上に来なければなりません。山陽にこう聞かれた昭陽は、即座に「それはご神託(神さまの・お告げ)なのです。あれこれと議論すべきことではないと思います。」と答えました。流石に当代を代表する二人のすぐれた儒学者、打てばひびくやりとりと言えましょうが、残念ながら、それではやはり山陽の疑問を解くことは出来なかったのではないでしょうか。

福本日南の解釈と明治天皇の御製
このやりとりが行われてから五十年、時代は明治を迎え、当時福岡が生んだ論客として全国に雄名を轟かした福本日南が登場いたします。ところがこの日南がその代表的名著『筑前志』の中でこの山陽と昭陽のやりとりをとりあげ、この対話によっては「敵國降伏」の真意は明らかにされたとは言えないとして次のように述べたのです。

難しい言葉ですが、原文は次の通りです。

「『敵國降伏』と『降伏敵國』とは自他の別あり。敵國の降伏するは徳に由る、王者の業なり。敵國を降伏するは力に由る、覇者の事なり。『敵國降伏』而る後、始めて神威の赫々(かくかく)王者の蕩々(とうとう)を看る」

敵國が降伏するという場合の降伏は自動詞、敵國が自から降伏するという意味になりますが、敵國を降伏させるという場合の降伏はいうまでもなく他動詞、敵國を武力でねじ伏せるという意味になるのです。従って「降伏敵國」というのは、武力で天下を統一するという、所謂「覇道」の表現なのです。ところが「敵國降伏」というのは敵國が我が國のすぐれた徳の力によって、おのずからに磨き、統一されるという「王道」の表現に外ならない。ここにこそ日本のすぐれた國柄が見事に示されている。

日南はこのように述べているのです。………………………………………………………………………………………………
私はこの日南の解釈こそ、山陽の疑問に答え「敵國降伏」の真意を世に明らかにしたまことに適確な解釈であり、このように理解してはじめて「國も人も純粋な神さまのみ心に帰一し・お仕えする時、一切の外からの禍いはおのずからに消えて平和な国の姿が保たれるにちがいない」という歴代の天皇さまのご聖慮をうかがうことが出来ると思うのです。

このように考えてきますと、すぐ思い出しますのは次の有名な明治天皇の御製です。

おのづから仇のこころも磨くまで誠の道をふめや國民(くにたみ)

この御製は日露戦争のころおよみになったお歌ですが、国運をかけて戦われたあの戦争のただ中で、武力ではなく、人間のまごころによって敵國の人の心がこちらに靡くように真実の道を歩めとおさとしになった明治天皇の大御心の深さにはただただ心うたれます。しかしこのお歌に示されたご精神は、いま申し上げた「敵國降伏」にこめられたご精神と全く同一ではないか。すなわちこのお歌に示されたもの、それは明治天皇だけではない、歴代の天皇さまに一貫してうけつがれたご精神そのものでありそれを明らかに示しているのが、他ならぬ、この「敵國降伏」の四文字だったのです。

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なおこれは私自身、直接見聞した思い出なのですが、昭和五年、文豪、徳富蘇峰先生が筥崎宮に参拝された折、ご神殿から拝殿に移された御宸翰を前にされた先生は、「道義立國(正しい道を以て国の内外を治めること)こそ、敵対する国がおのずから心服する道である」と語られたのです。

この蘇峰先生のお言葉もまた、この「敵園降伏」の四文字の中にこめられたご精神を見事に洞察されたものとして、深い感銘をうけたことを今でもありありと思いおこすのです。

亀山上皇をお偲びになる今上陛下
さらに以上のことと関連して、是非とも心にとどめておいていただきたいことがありますので申し添えておきましょう。

先に、現在楼門に掲げられている「敵国降伏」の四文字は亀山上皇の御筆蹟を模写されたものと申し上げましたが、上皇の御姿は東公園の銅像として、私ども福岡市民が日夜仰いでいるところ、犇々と迫ってくる国難に身を以て当ろうというきびしい決意を胸に、はるか海の彼方をみつめて立っておられるみ姿には深い感動をおぼえないではおられません。

ところが、この亀山上皇のご決意を最も身近にお偲びになっておられるのが、実は今上陛下なのです。陛下がまだお若い、皇太子殿下でいらっしゃったころ、当時の一流の先生方からさまざまのご進講をおうけになったのですが、なかでも東洋史学の泰斗として有名な白鳥庫吉博士が、大正三年、当時陛下は十四歳の少年でいらっしゃったのですが、その年から東宮御用掛として日本の歴史、特に歴代の天皇さまのお話を続けてこられました。そのご講義が終ったとき、博士は陛下に対してこれまでのお話の中で、どの天皇さまのお話に一番感動されましたかとご質問されましたところ、皇太子殿下、すなわち今の陛下は、言下に

「敵國降伏という念願のもとに、御一身いのちにかえて、伊勢の皇太神宮にお祈りあそばされた、あの亀山上皇のお話が一番身にしみました。」

とお答えになられたということです。私はこのことをお聞きしたとき、本当に深い感動にさそわれました。

思えば今上陛下のご一生は、まさしくその亀山上皇のご生涯さながらではなかったか。陛下はその若い日に、亀山上皇のお話をお聞きになって、ご自身の将来を予感なさったのではなかろうか、私にはそのようにさえ思われるのです。

昭和二十年八月、ご聖断によって遂に終戦を迎えられた時、陛下は次のお歌をおよみになりました。

爆撃にたふれゆく民のうへを思ひいくさとめけり身はいかならんとも

身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民を思ひで

国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

この終戦の折の御歌をよめば、ご一身のいのちに代えて国の安泰をお祈りになった亀山上皇の大御心が七百年をへだてて、今上陛下の大御心に直接にひびきあっていることは、誰の日にも明らかでしょう。この一筋のお志の継承の中に、厳粛にして貴い他のどの国にも見ることのできない日本の国柄がある。私にはそう思われてなりません。

陛下が終戦直後、九月二十七日に最初にマッカーサー元帥にお会いになった時「今度の戦争のすべての責任は自分にある。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上はどうか国民が生活に困らぬよう連合国の援助をお願いしたい」とおっしゃった。それに対してマッカーサーは大変な感動に襲われ、その日記には「この勇気に満ちた態度は私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最高の紳士であることを感じた」と述べているのです。

マッカーサーをしてこのように感動させたもの、それは今上陛下の類稀れな御人柄と、捨身のご決意にあるのは勿論ですが、それは今上陛下だけのことではなかった。不遜をかえりみず申し上げますなら歴代の天皇さまにうけつがれたご念願の結晶が、今上陛下のお言葉となって現われたと思うのです。

そう思って、楼門の上の「敵國降伏」の扁額を仰いでおりますと、さまざまな意味で、ここに日本の国柄の凝縮した姿と、歴代の天皇さまの一筋に貫かれたお祈りがこめられているとしみじみ思うのです。

ここ筥崎宮の象徴ともいうべき「敵國降伏」の四文字の中にこめられたご精神、それをご参拝の皆さまはじめ、後世の方々に正しく知っていただきたいと思い、拙い言葉ながら解説申し上げた次第です。

筥崎宮宮司 田村克喜謹記



◇頼山陽(一七八〇~一八三二)京都にあり、幕末を代表する大儒学者。大阪に生まれ、翌年、広島藩儒となった父と共に広島に移り、十八歳で江戸昌平坂の学問所に学ぶ。文化四年、平易な文体による「日本外史」を著し、鎌倉幕府いらいの武家政治の非を鳴らし、大義明分を明かにして世人を警告した。
来福のおり、花遁から博多帯を贈られ、返礼にしたためた「機声颯々(さっさつ)として街を爽(はさみ)て鳴る」に始まる漢詩は、いまも地元に保存され国の重要文化財。

◇亀井昭陽(一七七三~一八三六)福岡藩の儒学者・亀井南冥(なんめい)の長男。豪傑肌の父親に比べ温厚篤実な人柄で、父の学説を大成することに努めた。山陽を筥崎宮に案内したときは山陽三十九歳、昭陽四十六歳。山陽が「日本外史」をあらかた脱稿し、京洛の名声を背にすれば、昭陽また九州を代表する儒学者の誇りがあった。その娘の小琴(しょうきん)は幼時より詩、書、画にすぐれ、南冥門下の雷首と結ばれいずれも五亀(亀井学派の五傑)のうちに称えられる。

◇福本日南(一八五七~一九二一)福岡藩士・福本泰風の長男に生まれ、幼名は巴(ともえ)のち誠。藩学修猷館から司法省学校に学び、北海道開拓やフィリピン探査に情熱を燃やす。欧州を見聞したあと明治三十九年、九州日報社長兼主筆として筆陣を張り、また国民党代議士として犬養毅を助けた。晩年の著作「元禄快挙録」は赤穂浪士伝の決定版とされ、その他かずかずの史伝で文名は全国に知られた。

◇徳富蘇峰(一八六三~一九五七)本名猪一郎。熊本県水俣出身。新島襲の同志社に学び熊本で自由民権運動に加わる。上京して「将来之日本」を出版。引続き「国民之友」を創刊し「国民新聞」を起した。
言論界、政界に活躍して、のち大阪毎日、東京日日新聞社の社賓となる。
満洲事変以後は、皇室中心主義・国家主義思想をもって活躍し、大日本言論報国会の会長となった。長い生涯に多くの歴史書を著したが、その代表的なものに「近世日本国民史」百巻がある。昭和三十二年没。九十四歳。

◇白鳥庫吉(一八六五~一九四二)東洋史学者。千葉県出身。一八九〇(明治二三年)東京帝国大学史学科卒。学習院教授。ヨーロッパ留学。一九〇三年文学博士。一九〇八年南満洲鉄道株式会社歴史調査室主宰。一九〇五年以来東京帝国大学教授。一九一四(大正三年)東宮御用掛となり、歴史を進講す。
一九二二年殴米に出張、パリアジア協会百年祭に日本学士院代表として出席。東洋文庫研究部長。一九一九年帝国学士院会員勅選。一九二五年東京帝国大学名誉教授。専攻は西域及び満蒙史。蒙古、トルコ、朝鮮などの言語に精通し、又日本古代史、神話の研究に深い知識と見識を有した。

~改版にあたり~
この度、「敵國降伏のいわれ」の小冊子を改版する事となりました。
先代の克喜宮司が弘安の役七〇〇年を機し本書を記して四半世紀が経ち、世は様々に移り行く中、当宮は平成十五年に延喜二十三年(九二一二年)の鎮座より数えて一〇八〇年の佳節を迎え、これを記念し御遷宮事業として平成十三年から同十八年の聞に御本殿修理工事、祭事施設や社務所等の改修改築工事を執り行いました。
現在楼門上に掲げられています額はこの記念事業の折、ちょうど四一〇年ぶりに当時と同じ色彩を復元し新たに奉製したものです。
時恰も文永の役七三〇年の節目と重なりました事を鑑みますと、常に国と民との事をお思いになられた亀山上皇の大御心を偲びまつり、混迷のこの世の中に改めて「敵國降伏」の真実の心をご理解頂ければ幸甚に存ずる次第です。
平成十八年八月一日
筥崎宮宮司 田村靖邦

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筥崎宮文化叢書
敵國降伏のいわれ
昭和五十八年一月一日初版発行
平成十八年八月一日第六版発行
発行者 福岡市東区箱崎1丁目22ー1
    筥崎宮
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